seagull

愛がなければ見えない
うみねこのなく頃にという作品で生まれた名言の一つ。
愛がなければ見えないものとは一体何か。作詞を始めてから、つまり曲がりなりにも製作者サイドに立ってから、その問いに対しての答えを得たように思う。


“つくる”ことは難しい。
閃いた、と思うことがあってもまずは疑う。世に出た何かを無意識下で模倣し、それを創造だと偽っているのではないかと。「はじめて」思いついたのではなく、いたずらな記憶の再来なのではないかと。
疑いながらも単語を組み合わせ、在り来たりな羅列を削ぎ、意味が欠落しない程度に奇抜な配置を目指し、枠からはみ出しきれない自我を呪い、インプットとアウトプットを重ね、鈍磨した思考回路でようやっと落ち着きどころを得る。


製作者が裏でどんな試行錯誤を重ねたかなど、言ったところで自慢にもならないので公言するつもりもない。
どれほど時間をかけたか、愛着があるか、苦節を経たか。過程/内部事情を語れば語るほど、成る程相手は多少なりとも心動かされるだろう。作品に付加価値を見出してくれるだろう。
結果、彼らは本質(そんなモノが存在するのならば、だが)を見失う。背景ばかりに感情移入して、作品を過剰に愛するようになってしまう。


製作者への愛。秘められたストーリーへの愛。
愛がなければ、確かに曲の裏側は見えないだろう。同様に愛があっては見えない部分だって在る。
愛は客観性を失わせる。それを良しとするか否かなど私の与り知るところではないが、私は「愛をもって」見られるのは御免だなぁと思ってしまったり。