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「音楽とは何なのか?」
という漠然とした問いを、大学の講義で投げかけられたことを覚えている。


起承転結の展開は音楽に必要か?
一定のリズムが音楽には不可欠なのか?
西洋音楽では、「メロディ」「リズム」「ハーモニー」を音楽の三要素を説くらしい。
でたらめな鼻歌でも音楽だと思えるか?
楽器から奏でられる音でなくても、音が聴こえさえすれば、それは「音楽」と呼べるのか?


講師はジョン・ケージの有名な曲を私たちに聴かせた(というよりも、動画を披露した)。
4分33秒」。三楽章から成る楽譜には全て「TACET(休み)」と記されるのみ。
演奏者は曲の始めにピアノの鍵盤の蓋を開ける。4分33秒の間、奏者と聴衆はその場の無音を聴く。鍵盤の蓋は静かに閉じられ、奏者は舞台から去る。
音楽は音を鳴らすもの、という固定概念をぶち壊すような、無音の音楽を提唱したとしてあまりにも有名な曲だ。


講師が言った言葉は、私の知識をひとつ飛び越えるようなものだった。
「僕はですね。この曲を知って、音楽は明瞭な音らしいものの有無から成り立つのではない、ということ以外に、あることを教えてもらった気がしています。
 音楽には、必ず、はじまりおわりがあるのだと、僕は思うんです」


ジョン・ケージが永遠に、舞台の上、ピアノの前に座っていたら、それは音楽にはならない。
4分33秒という限られた時間であれば、無音ですら音楽に変わる。
生活音が音楽たり得ないと感じるのは、明確なはじまりもおわりもないから。
いつか鳴き止む蛙の合唱も、きっと音楽だと感じられる。
どんなに尻切れとんぼの鼻歌であっても、終わりまで行き付いたのなら、それは音楽になるだろう。


人生もきっと音楽のようだろう。
私の言葉は幾つもの音符。日々はクレッシェンドやスタッカートで彩られ、それでも長い目でみればずるずると単調な音を私の躰は演奏し続けるが、必ずフィーネ(おわり)に至るだろう。
最期に私がどんな音楽になれるか、楽しみだ。