cluster

クラスタについての考察。


SNStwitterで、よく「クラスタ」という単語を耳にする。
cluster=房 と認識していたが、どうやら少し意味が広がっているらしい。

例えばボカロクラスタと言えば、ボカロ好きの人々という意味。
[嗜好の近い人々の集合体]、とでも定義すれば良いだろうか。


クラスタについて興味深いのは、その集合体から中心が疎外されている点にある。
先ほど例に挙げたボカロクラスタに、ボカロ自体は決して入らない。これはボカロキャラが架空の存在だから、というわけではない。
クラスタが[嗜好の近い人々の集合体]である限り、その嗜好の対象となる存在は必ず除外される。


以上のようなことに気付いたのは自称歌い手クラスタを見かけたのが切っ掛け。
彼らは歌い手のことが好きだ好きだと言いながら、歌い手さんを様々なツールで追いかけつつ勝手に「クラスタ同士」で盛り上がっている。その様子に違和感を覚えた。
普通の芸能人とは違い、歌い手さんはtwitterや生放送等で交流が容易い。だからもっと本人とのコミュニケーションを求めて奮闘するか、と思いきや……意外と従来のような仲間内での盛り上がりが減らない。


彼らは見事なまでにクラスタなのだ。
中心の存在は疎外しても構わない、いやむしろ疎外してこそクラスタは成立し、安心して無責任にキャイキャイやれる。
誰もが中心から平等に距離を置き、手が届かないことにやきもきしながらも抜け駆けの出来ない状況に安堵している。
好き、という共通意識だけで安易に手を繋ぎ、中心を囲う巨大な円を作っていく。その輪はどんどん広がり、クラスタ同士は中心から遠ざかっていくだけなのだろう。


成る程、誰もコミュニケーションを望んでいるわけではないのだ。
…という結論は、それなりに絶望でしたよ。