murmur

twitterの関係は基本的に、希薄だ。
言葉に重みなんてない、数打ちゃ当たる。共時性が最大の特色であり、「今twitterやってる君と同じ時間を生きている人がいるよ」というありきたりな事実を感じられればそれで満足なツール。挨拶が最重要なのもこれが理由だろう。
それなりにreplyを返し返され。人の輪の一部であるかのような錯覚を味わい。ネタがあればretweetで広がり共有され、苦境を漏らせば誰かにほんの少しの励ましを貰う。
なんて薄っぺらいんだろう。でもtwitterとは既に確立されてしまった一つのコミュニケーションの形で、間違いなくこのシステムを享受し不可欠な存在とすら感じている人々がいる。


無論、人それぞれに使い方なんて異なるだろう。ただtwitterが備える限られた機能そのものが本質を規定している*1。とことんまで稀釈された上っ面のコミュニケーションを。
ごく個人的に、この薄っぺらさが時折恐ろしくなる。自分の言葉の希薄さ、自分に返ってくる言葉の希薄さ*2
自分はtwitterというツールを媒介とした言葉の全てから感情や意図を受け取れなくなってきている。twitterを信頼していないのだろうか。それともtwitter越しの相手を信頼できないのだろうか。…あまり、深く考えたくはない。


そして私自身も、twitterに書く言葉は何て軽い。
夏休みの宿題で課された日記のよう。twitterと向き合っていると、「書き記すべき何か」を探してしまう。挙句、どうでも良い現状(筆頭は食事のことか)をぽつぽつと落としていく。後で見ても何の面白みもない、それでも今なにしてる?と問われた空白を埋めれば何故だか安堵してしまう。
呟きたいことがあるから呟いているわけでは決してないのだと気付く。あくまで事後的で、しかも前後は見事に転倒している。
気持ちが悪い。とても。何もかも。

*1:前々から不思議なのだが、DM(ダイレクトメール)の機能は明らかにtwitterの正式な狙いから外れていると思う。二者間の秘匿されたやり取りなんて。どういう意図で組み込まれたのだろう、利用者のニーズとやらか?

*2:厳密に言うなら、「自分に返ってくる言葉を希薄だと感じてしまうこと」なのだろうが