encyclopedist

出遭った時はとにかく衝撃だった。
意味ありげに閃光を放つ言葉、言の葉。それらが訴えかける切情の質量。
億の日々を待つ
アンシクロペディストの見た夢、それは恐ろしい引力を持った曲だった。


一昨年の九月、私は居ても立ってもいられず、けーぜろ氏にファンメールを送らせていただいた。
好きです、とただ言いたいだけで、ほんの短い“おはなし”を書き添えて。
今日、何となくそれを公開してみようと思ったので、そうします。


* * *


アンシクロペディストの見た夢


 白っぽく、ごつごつとした岩面の上に座り込んでいる。生きている物の息遣いは一つも聴こえてこない世界。視界を遮る建物なんかは何もなくて、ただ夜空ばかりが包み込むように広がり続けていた。暗い、黒い夜空の下で一人きり。目を凝らせば小さな点が幾つも見えて、きっと星だろうと思った。ここには、月はいないのだろうか。広すぎる空を見渡してみても、それらしい形の光は見当たらない。
 足元の小石を何気なく蹴ると、思ったよりも遠くへ転がっていってしまった。目の届かない場所に消えても、小石と岩がぶつかる音がいつまでもいつまでも反響して聞こえてくる。何だかとても寂しくなってしまって、誰か、と小さく声をあげた。すると、呼んだかいと頭上から返事があって、顔を上げれば、宙に星とは異なる光が浮いているのを見つけた。爪の先のように弓形に、細い白光。
「やあ、こんばんは」
 声の主はやはりその頼りない光で、穏やかな、子守唄のような声で話しかけてきた。
「こんばんは。あなたはだあれ?」
「そうだね、今は丁度キサクくらいかな」
「キサク?」
 随分と妙な名前だ。
「今は、ね」
 そう言う白光は、だんだんと光の幅を広げていっている。
「えーと、キサクさん。あなた、その……」僅かに言いよどみ、言葉を探す。「太く、なっていってない?」
「そりゃあ月だもの、満ち欠けくらいするさ」
 可笑しそうに先端を震わせながら、ほら、もうすぐ半月になるよと月は言った。
 アルファベットのDに似た形にまで膨れ上がった彼を見つめる。弓張月だと思わず呟けば、人はそうも呼ぶらしいねと月は答えた。
 ひんやりと冷たくて心地良いクレーターに体育座りをして、正面の空中に浮かぶ彼をぼんやり眺めた。半円を通り越し、円が満ちるまであと少しというところで彼は『幾望』という名になった。満ち足りた顔の美しい『十五夜』へ、顔の右側が僅かに欠ければ『既望』へ。『十六夜』の名を捨てた彼は『立待月』になり、『居待月』、『寝待月』、『更待月』へ。顔を欠く度に次々に名を改めていく。昔の人はいろんなポーズで月を待ちわびたらしい。のんびりと満ちては欠けていく彼の姿を、私はじっと膝を抱えたまま見上げていた。
 鏡写しの『弓張月』へと変わりゆく月が、ふいに身を傾けながら問いかけてきた。
「ねぇ、月が削れていくのはどうしてだと思う?」
 ふるりと首を振る。
「心を削ぐからさ」
「どうして心を削ぐの」
「つらいからさ」
「どうしてつらいの」
 会えないから、と『半月』が零した。更に身を翳らせていきながら。
「地球から見れば、滑稽な追いかけっこをしている僕たちなんだろうね。あの人が東から西へ空を行き朝と昼を描き、その夜には同じ軌道をなぞって僕が昇る。だけどね、たとえ歩みを継いだって、いつまで経っても僕たちは決して会えない。ただそれだけのことなんだよ」
 そうやって滔々と語る間にも、彼は徐々に心を削り、身を削っていく。
 『下弦』の後の月の名前を、私は知らない。
「僕にはもう一つ、別の名前がある。異名と言うんだけどね。君は、それを知っているだろう?」
 月の、異名。
 知っている。私はそれを読んだことがある。
「……『太陰』」
「そう、太陰。陰と陽、決して切り離せない二つの存在。太陽を対をなす存在として与えられた名前さ。……人も、昔はそういう物語を夢見てくれたんだけどね」
 私はまた、ふるりと首を振った。躊躇いもせずに削れゆく月。
 ああ、終わりが近づいている。
「人はもう、眠っている時にしか物語を読まないから」
「起きている時には、じゃあ、何を読むんだい? 君みたいに、百科事典かな?」
「覗き見してたのね」
 夜空になら僕はいつだって浮いているもの、と三日月ほどの細さにまで減った彼は可笑しそうに揺れた。覚束ず、ゆらゆらり。27.3日のゆりかごはもうじき眠る。
「いつかあなたは会えるのかしら」
 うっすらと残る線になった月がますます身を細めて、笑った。
「その答は、君だけに託すよ」
 そうして『新月』になった。


 目を覚ませば、まだ太陽が昇る前の時間だった。部屋の中は仄暗く、だけど闇と呼ぶには明るすぎる。寝る前に読んでいた百科事典が机の上で開きっぱなしのままになっていて、窓から差し込む月影に照らされている。頁の上にあるたくさんの単語の中から、最初に教えてもらった名前を見つけた。『既朔』、文字で見てもやはり呼びづらい変な名だ。
 窓の外には、夢の中よりもずっとゆったりとした速度で傾いていく片顔の月。何食わぬ顔で太陽の残光を受けているけど、きっと彼なりの強がりなんだろう。いつかは会えるだろうかと億の日々を重ねながら、目が眩むほどの光を反射してまた次の夜には心を削るのだろう。
 一時間もしない内に彼は『有明の月』となる。それを遠くから見るのも悪くないけれど、やっぱりもう一眠りすることにした。頭を地に乗せ、瞼の裏に物語を読むために。
「いつかきっと会えるように、そういう物語で夢を見るよ」