critic

批評、という言葉に堅苦しさを感じるあなたへ。


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たとえばあなたが、とても好きだと感じた作品があるとする。本でもいいし、音楽、アニメ、映画、絵画でもいい。むしろ作品でなくたって構わない。人や動物でも構わない。家族、友人、恋人、芸能人、パグ、くじら、ハナカマキリ。
あなたが好きな"何か"を、誰かに伝える時。どんな言葉を使うだろう。


伝える相手が親しい人ならば、非常に簡単な/安易な言葉で済んでしまうかもしれない。
「あのね、私××が好きなの!」
相手はきっとそれなりの興味を示してくれるだろう。何故ならあなたとその人は近しい存在だから。その人にとって、あなたという存在がある程度重要な割合を占める人だから。そんな"あなた"が好きである××のことを、その人は"あなた"の重要度を担保にして興味を抱いてくれる。


では、そうでない相手だったら?
相手にとってあなたが大して重要じゃない存在であれば、「ふーん、そう。」で話は終わってしまう。好きでもない"あなた"が"好き"な××なんて、どうでもいいのだ。


あなたの存在を担保にすることなく、誰かにあなたの"好き"と伝えるには、説得力が必要だ。
どうして好きなのか。どこが好きなのか。あなたのごくごく個人的な感情(好き)を、誰にでも伝わるような安直な言葉に押し込めなければならない。適当な言葉なんて見つかりっこない、と誰しもがもどかしさに悶える。「好きだから"好き"」、これ以上のシンプルで美しい、純粋な方程式は有り得ないのに、あなたが放つ"好き"という言葉では何一つ相手に届いてくれやしない。
あなたの"好き"はあなたにとってだけ理解できる、誰とも共有できやしないあなただけの感覚だ。それを理解した上で、それでも誰かと共有したいと思った時、あなたはきっと批評家になる。なろうと思ってなるわけではない。あなたが自らの内から迸る"好き"を誰かにとっても理解可能な"好き"に変換しようと、あらゆる言葉を手探りで選び取る時、あなたは間違いなく批評家になる。
「好き」に頼ることを止めて"好き"を伝えようとする時、あなたは批評家になれる


あなたの感情で、相手の感情を揺さぶることは難しい。
あなたの理論で、相手の感情を揺さぶってみるといい。「理論で感情を動かす」、それが批評のやり方だ。